伏見稲荷へ初詣

年明けに持ち越していた昨年のお仕事を2件、先日納品しました。

どちらも児童・学習系の書籍の挿絵です。いろんな偉人の半生を知ることができました。児童書のお仕事は、本当に勉強になることがたくさんでありがたいです。

漫画家・イラストレーターになって、今年で12年目になります。

来年で干支を一周するくらい続けてこられているこの職業。不安定ではありますが、自分にとても合っている働き方なんだろうなと思います。(なんせ私は企業に勤めても最長2年で転職)

干支の端から端まで。12年目というのはある意味、節目の年なのかなと思い、毎年「健康にお仕事したい」というふわっとしている抱負を、今年はもう少し具体的に考えてみました。

今年は「自分の線を描いて生きる」です。

自分の線というのは、私が本来、意識せずとも、呼吸するかのように自然と描ける絵柄のことです。

↓こういう、ガサガサした線で描いた絵のことです。

児童書や読切、連載作品と比べて、かなりガサガサとしているフリーハンドな絵柄という印象かと思います。

Comic 4P漫画「帰省」より

漫画家デビューする前は、こういう絵ばかりを描いていたのですが、児童書のご依頼や、少女漫画誌でのデビューの際、今後仕事として漫画を描くことを意識した時、絵柄を変えなければ、何者でもない私はこの世界で生きていけない気がする・・・と強く思い、かなり絵を矯正しました。

今思えば、そんなことを考えなくても良かったのではないかと思うのですが、当時はまだ20代前半で若く、思いこみも激しかったので、矯正してしまったのでした。

ですが自分的には生き残るための手段だったので、お仕事が増えるにつれ、ご依頼に合わせて描き方を変えることに、それほど抵抗は感じなくなっていました。

そして今に至るのですが、ここ数年、描いていて物足りなさを感じるようになってきました。描いても描いても、何か足りない。こんな線だっただろうか?自分の絵じゃない気がする。この違和感はなんだろう。

そんなときに、大河ドラマ「麒麟がくる」の感想イラスト(#麒麟絵)を毎週放送後に描き始めたのですが、感情が昂っている間に描き上げたくて、ガサガサした線で勢いよくペンを動かしていました。

それはとても呼吸ができる線で、「描いたぞ!」という感覚がすごく持てたのです。本来自分が描いていた線。漫画家デビュー前の絵柄で描いていました。

仕事としての絵柄、自己としての絵柄をいつの間にか完全に分けてしまっていて、それで段々と、仕事の絵に対して新鮮味を感じなくなっていました。

「もっとガサガサと描きたいけれど、作品に合っていない」「アニメ塗りのような方が見やすいのではないか。そうしよう」「もっと彩度を高くしないと、本棚で埋もれてしまう」

本来の自分からかけ離れた絵柄になっていっている感覚があり、少しそれに危機を感じ始めました。

今年は絵や漫画を描くことに、ハードルを上げないようにしたい。

自分が呼吸できる線を引いていきたい。そう思い、この抱負にしました。

「このガサガサした絵じゃ、仕事にならないかも知れない」とか、そんなことを考えるのはやめて、ちゃんと、自分の描きたいものを信じてあげよう。

大丈夫。楽しんで描かれた作品は、人にちゃんと伝わることを、私は知ってる。

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